カテゴリ:映画( 4 )

 この映画に、桐島本人は登場しませんが、彼を取り巻く状況が徐々に見えてくる構造を持ちます。ドキュメンタリーに近い手法で、そのとき主となる人の目線によって、風景がまるで淡い水彩絵の具の滲んで、色の重なりを作り出すように映し出されます。

 高校の頃、クラスや学年・部活があって、一種のヒエラルヒーが築き上げられます。一つの色は、一つだけでは意味を持ち合わせませんが、重なることで色彩が生まれるように感情が生まれます。花形のバレーボール部、あまりぱっとしない野球部に、きちんとまとまりのある軽音楽部、オタクの巣窟である映画部。それから、部活やらない帰宅部等々。誰が誰とつきあっているか、勉強の順番も。
 
 桐島は、その中心にいた人だったのに、彼が止める決意をしたことで、何となくあったヒエラルヒーに揺らぎが生まれ、別の側面を見せ始めるのでした。

 ポスターの中心には、神木くんが演じる映画部の前田が映っているけれども、主役は何となく彼の構えているパーソナルで手間の掛かる6ミリという撮影機材そのものなんじゃないかと思いました。そうでないと、この複雑な色味をだせないというか。誰かが主人公であるという話ではなく、ある者は人気者の男子とつきあっていることがステイタスだし、ある者は部活の試合に勝たねばならないと思い詰めます。しかし、そうありたいというのと、そうなり得ない自分には非常にデリケートな距離あります。そのゆらゆらして、後ろめたくもどかしい頼りない感情をあまり説明しないで、場面を重ねることで浮き上がらせる工夫がありました。それこそ細心の注意を払って。

 手間の掛からない簡便なデジカメでは、自ずと象徴される意味合いも変わってくるでしょう。

 最期、自主ゾンビ映画の監督である神木(前田役)くんが、行けているのに本気を出せない(出さない)宏樹くのインタビューをします。ヒエラルヒーそのものはフラットで残酷だけど、6ミリを通して見つめる設定が視線を和らげる効果にもなっていて、本当にいい場面です。カメラの機能が、暴くのではなく、パーソナルな距離感を与えたように見えました。
[PR]
by madozukin | 2013-01-21 03:29 | 映画
 まず世界があった。神である父は天地を創造する。妻はその共犯者であり、三人の子ども達は、特筆に値する「例文」としてしかの世界を知らない。そこでは、猫はネコでなく、外部から敵である。食卓にある胡椒が電話であり、子ども達は、高い壁に遮られ、外の世界とは遮断されている。二人の姉妹と一人の息子。

 外の生活を知っている人間からしたら、楽園と言うより、ちょっとした収容所である。規律があって、競争と支配があるが、本当の意味の承認がない。後で分かるが、子ども達は、名前を持っていない。例えば、長女と呼ばれる。

 さて、思春期を迎えた息子に、父はそれを処理してくれる女性を連れてくる。父親が所有する大きな会社の従業員でもある彼女。お金を払い、目隠しをされ、その場所に連れて来られる。そして、ある切欠で、まるで聖書に出てくる蛇のように、子どもの一人に知恵の実を与えることになる。

 それは、映画のビデオであった。

 世の中には、固有の名前があり、その人として呼ばれる。子ども達とは呼ばれない。父と母が与えてくれる、食べ物と序列と、きょうだい間だけで繰り広がられる競争以外の世界の存在することを発見する。なんということだろう。

 表題でもある「犬歯」という原題は、父親が子ども達に教えた、犬歯が抜けたら家を出ても良いという規律に拠る。子ども達の犬歯は、永久歯で抜けるはずもないので、永遠にやってこない承認である。

 この収容所を悟ったとき、三人のうち一人は、どんな行動に出るか。子どもは必ず大人にならなくてはならない。あるいは、なるものなのだ。
[PR]
by madozukin | 2012-10-24 12:00 | 映画
 セルゲイ・パラジャーノフ監督の「火の馬」を観る。この人のテーマは、人の一生らしい。その土地に根ざした叙事詩というか独特の文脈がある。「ざくろの色」のときは難解すぎて何度も眠気に襲われた。

 どうしようもないことは、民話のせかいの中では、神さまか悪魔のところへ持ってこられる。神さまは、結婚や死や祈りを司り、悪魔は、不貞や裏切り、忘れがたい過去の記憶の中で巣くう。子どもはいつも未来で、恋は予感で始まり、結婚は現実的な落とし前である。そして、落ち着いたはずなのに、なぜか感情が彷徨い出す。

 死に瀕して思い出すのは、若いときのじぶん。

 電車に座っていると、女子学生が「どうアプローチしたらいいか分からん」と言っている。もう一人が「したじき落とせばいいじゃん」などと返事をする。ハンカチよりドライな感じ。すると、別の一人が「帰るとき、どう断ったらいいのか」と訊いている。すかさず四人目が「観たいドラマがあると言えばいいよ」とアドバイスしている。岡崎京子の「リバーズ・エッジ」にそんなシーンがあったな。

 少年の初恋の人は、羊を助けようと、谷に落ちて死ぬ。彼は、ずっと忘れずことが出来ず、それが結婚に深い影を落とした。
[PR]
by madozukin | 2009-09-29 01:04 | 映画
 ふたりのサビーヌがいる。若い頃の、透明感のある、人形やセーターを編みバッハも弾いたサビーヌ。スクーターも運転したという。しかし、兄の死や環境の変化に彼女の心は耐えられず、それは乱暴な態度として表出した。手を焼いた家族は病院を頼る。自閉症に対して理解が低かった当時、病院で拘束され薬漬けにされたサビーヌは、体重が三十キロ増え失禁し、自分のことも出来なくなったしまった。五年間そこにいた後、このドキュメンタリーの撮影者、姉で女優のサンドリーヌによって現在の専門施設に移される。

 画面に映るもう一人のサビーヌ。薬は、精神病院にいた頃のはんぶんになったけれど、飲まなくてはならない。セラピーの一環として家庭菜園の草抜きするのも面倒ですぐに休みたがる。不安になると奇声を上げる。怒るとかんたんに相手を撲とうとする。サンドリーヌに何度も「明日も会いに来てくれる?」と確かめる。

 いまのサビーヌが、かつての自分の映像を見たとき、表情が急変する。そのはげしい感情の動きにサンドリーヌが悲しいのかと尋ねると「嬉しいのだ」と答える。ママの生きていた頃だと振り返るサビーヌは、途中「病院」という暴力的な環境に置かれつつも、人間の尊厳を失っていなかった。身に起こっていることをちゃんと分かっている。

 最後に、サンドリーヌの、「もう一度妹と旅ができるだろうか」というモノローグでこのドキュメンタリーは終わっている。
 「自閉症」の症状や病質を知らないために起こった悲劇であるのだけれど、何というか、わたしは泣き出したサビーヌを見て損なわれなかったものもあると感じました。過ぎ去った時間、容姿、あるいは才能をいたむよりも。
[PR]
by madozukin | 2009-04-20 21:54 | 映画