カテゴリ:コトバ( 8 )

 話は、前回の「かまわれたい人々」から何となく続いています。

 個人である根拠とは何でしょう?だって、わたしたちは日本人ですもの(厳密には違います)、大体同じに慣れすぎています。大体同じでありたい故を以て、自民党が長期に渡り圧倒的に強い政党だったのです。余談ですが、その大前提をぶち壊したのは、現政権の民主党ではなく小泉元総理です。

 大体同じと言うことは、そんなに差がないと言うことで、差があったら抵抗なく妬めるということです。【悪口は、一人で言えば芸当にもなりますが、徒党を組むと安い情動の発散です。】

 そこで、まず、似ていないモノを探すと(差別の対象になりやすい)、貧乏と病気とトラウマと外国人であることが上がります(宗教の違いや多民族であることが前提になっていかない)。本人がどうしようもないことを根拠として、他人を貶めることに精を出す人の問題は、ここでは置いておきます。次に、それだけでは集団からの分離や隔離で終わるので、とても似ているけれども似ないことを探します。トラウマは、人と共有することの難しい極めて個人的な体験です。
 
 さて、トラウマを引き受けたい人はなかなかいません。なぜなら、トラウマは、人を孤独にするからです。漠然と親を恨みながら、親のように発散する対象を見つけ出して当たり散らす方が、心持ちでも安心です。安心したい欲望は、変化による希望をも凌駕します。
 でも、トラウマ話で注目されることは、個人であることとは違います。全然引き受けていないからです。それはそういうものです。声を出して、まだ未消化な自分を叫んでいる状態と言えましょう。

 というわけで、個人であることの根拠とは、引き受けがたいトラウマです。強引です。イエスは、いちばん最初に「わたしは、それを引き受けよう」と言った人ですね。個人の必須条件は、乗り越えなくてはならない不条理(トラウマ)に立ち向かえるだけの体力です。
やっとクリスマス・イブらしいお話しに。。


 個人でない人は、先日の読書の続きでいえば、かまわれる不自由を甘受して幸せを追求すればいいのです。かまわれない自由が、そんなに偉いわけではなく、生態系が違うのです。他人の生態系よりも、じぶんにとっての「幸せ」を知らない人は脆弱です。他人を羨んでいる内に人生は終わります。
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by madozukin | 2009-12-24 16:49 | コトバ
 じぶんの落差を、相手の思い通りならない態度から発見して【切れる】といういのが、正しいモンスターです。嫌みです。切れる以外の、様々なやり方を見いだせる人は、モンスターのスイッチが入りにくいのでだいじょうぶ。人を植民地化して、人を手段にして、じぶんを理想化することはないでしょう。

 モンスターは、自己憎悪と非常に親和性があって、だから回りに自尊心の低い人を集めます。→離れましょう

 モンスターは往々にして高すぎる、ほとんど実現不可能な(そのための努力もしない)理想を持っていますが、鏡が苦手です。→本当のことはじぶんのために磨きましょう(価値観を共有しない)

 モンスターは実は臆病なので勇気がありません。→彼等の復讐心に口実を与えてはいけません(復讐するときに最も元気が出るため)
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by madozukin | 2009-11-18 15:21 | コトバ
 ご本尊とは何かというお話。大袈裟でも何でもなく、現代人の自我構造なんて、「百億の昼千億の夜」なのである。だから、誰も、そんな孤独には気が付きたくなくて、他人の物語(トラウマ)がうっかりとすてきに見える。ぐぐぐ、じぶんの感情の有り様よりも、ちゃんとした所属と認知が重要になってくる。
 モンスターたちの言っていることは大凡そういう意味だった。モンスターとしての振る舞いは、まちがいなく、その落差を埋めるための発散行動である。

 シンプルに見るってたいそう難しい。妄想はやっぱり娯楽だな。兄弟が多い方が良いと言われるのは、たぶん、情報量の問題ね。

 わたしは、そんなことを知りたくなかったし、もっと良いものがあると思っていたけれど全部【釣り】でした。中身はないのです。人は、「わたしがわたしである」ことを意外にも引き受けたくないらしい。うつくしく心地よく都合良くいかないから。
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by madozukin | 2009-11-17 01:36 | コトバ
 その少年が、おかあさんに一番に言いたいことは、「坊主頭にしたい」だった。それだけ聴くと???である。「ようこそ先輩」の中の一場面である。その回、誰が先生だったのかは忘れた。

 おかあさんの言い分はこうである。坊主頭はダサイ。確かにそうなんだが、それだけでなかったようなのは、あとで、その少年が先生と面談したときの泪が物語っていた。おかあさんは、いつも頭ごなし。カメラが入ったので、おかあさんは反対しながらもしゃべってくれたが、いつもはまるで取り合ってくれないらしい。泪ははらはらとこぼれた。

 「坊主頭にしたい」は、おかあさんの嫌がることで注意を惹こうとしていたのだ。おかあさんは、いつも勝手に決めるから。正しいかどうかではなく、もやもやした、言葉にならないコトバ。

 強引にまとめると何か大事なところが壊れてしまう。辛抱強く育むこと。人の優れた判断は、じぶんにとって大事な部分と一致しない。
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by madozukin | 2009-09-25 00:50 | コトバ
 小説とは、じぶんの解体作業ではないかと思う。じぶんのままだと、それ以上さすらえないもん。変容できる人は書く(それしかできないのかもしれないが)、変容できない人は指を咥えて憧れる(それだっていい時間だけど)、変容しなくてもいい人は気にしない(何が起こっても気付かないこともあるけど)。

 ガラスの壁に、水性のペン(後で消せるように)で落書きした経験はたのしかった。空間が一変した。たまには、ノート以外のものに書くのもいい。じぶんが普段している作業について、肯定したり反省したり、四角い箱(じぶん)をこわすには、異質と出会うしかないと思う。存在を問われないと(すごく困らないと)、人は変わらないし、けれども下手をすると壊れてしまうのだ。

 shin-biであったいしいしんじさんの生小説の時間。
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by madozukin | 2009-08-10 01:05 | コトバ
 きょう、女優でもかぶりそうな?むぎわらぼうしを買いました。頭の部分が深くてよく似合ったのです。気の所為かもしれません。

 そう、全ては気の所為です。しかし、ひとは、冷静だけでも自惚れだけでも詰まらないのです。わたしは、たまたま帽子をかぶってしまいましたが、なりたい自分なれることとは違います。ぼうしを買えば、なりたい自分になれたような気がするだけのこと。「好き」はあくまで予感です。「情熱」というコトバでごまかさないでおこうと思いました。

 いつものことですが話題の本は読んでいません。じぶんのよくない根性から、まあまあ真っ当なところも通り過ぎて、素っ頓狂なところまで行って帰るのは面白い冒険でしょう。という本だったのかしら?

 ぼうしをかぶったくらいではあんまり遠くへは行けません。本を読んだら音楽を聴けば遠くへ行けるでしょうか。それは、どこまでも道案内な気がしました。エゴとエゴとがぶつかったとき、ひとは、本当に思いがけないところへ飛ばされます。だから、困ってもだいじょうぶ。
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 *写真は、ざぶとんの干し方が気に入ってぱちり。
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by madozukin | 2009-06-15 00:54 | コトバ
 有島武郎の本ではありません。悩みの持続時間というのを考えておりました。よく分かんないけれど、七八年なのだろうなと思いました。村上龍が、RYU`S BARで人の才能のピークの話をしていて、それ以上はどうして保たないのだろうと不思議がっていたからです。
 特殊なさいのうがある人も、そうでない人も、それなりに悩みがあるものです。だからこそ、じぶんで書かなくても、人の文章や絵や音楽にお金を払って共有します。

 悩むさいのうってあるんでしょうか。まぁ、ほとんどのことは十年もすればすっかり様変わりしますし、悩む種も尽きますし、ハイハイしていた赤子は小学校へ上がります。なので七八年説を取ります。大抵の人は、思春期か、すらすらと生きてこられた人も遅めの思春期を迎えますが、それ以上はあまり悩めません。一つのことを継続して頑張っていれば、それなりに成果もあって、ある程度他人から認めて貰えるじぶんになります。

 それを過ぎると、おそらく脳に相当負担なのでしょう。体力的にもきついから、病気になったり亡くなったり、ただの人に戻ったり。

 ああ、ホトトギスが鳴いています。物思いにふけるのはこのぐらいにしましょう。
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by madozukin | 2009-05-30 01:55 | コトバ
 「かわいい」は、大体許容範囲の願望であり、緩やかな譲歩への依存です。日本人は、この言葉にすごく幅を持たせて使います。洗練の極みであり、同時にうっとうしさの突き当たりでもありましょう。

 「かわいいね」 女の子を誉めるときに主に使う。自分にもやさしくしてくれないかなという願望も含む。
 「かわいいと思われたい」 なんとなく受け入れられたい
 「かわいくない?」 みんなにとっても大丈夫そうな気がしている
 「あー、かわいい!」 とても無防備である自分を実感している

 という具合に使います。もちろんわたしも使ってます。他意はございません。わたしの分析は、皮肉が過ぎますが、もっと使われ方に則して捕まえると「詠嘆」ですね。他者を他者と意識せず、緩やかな暗黙の了解です。だから、似たタイプばかりでグループを形成する必要があったりなかったり。自分を意識せずに自分に包まれたい欲望のひだひだを感じたり感じなかったり。

 他人の登場が「かっこいい」に相当します。
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by madozukin | 2009-05-18 15:45 | コトバ