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 有島武郎の本ではありません。悩みの持続時間というのを考えておりました。よく分かんないけれど、七八年なのだろうなと思いました。村上龍が、RYU`S BARで人の才能のピークの話をしていて、それ以上はどうして保たないのだろうと不思議がっていたからです。
 特殊なさいのうがある人も、そうでない人も、それなりに悩みがあるものです。だからこそ、じぶんで書かなくても、人の文章や絵や音楽にお金を払って共有します。

 悩むさいのうってあるんでしょうか。まぁ、ほとんどのことは十年もすればすっかり様変わりしますし、悩む種も尽きますし、ハイハイしていた赤子は小学校へ上がります。なので七八年説を取ります。大抵の人は、思春期か、すらすらと生きてこられた人も遅めの思春期を迎えますが、それ以上はあまり悩めません。一つのことを継続して頑張っていれば、それなりに成果もあって、ある程度他人から認めて貰えるじぶんになります。

 それを過ぎると、おそらく脳に相当負担なのでしょう。体力的にもきついから、病気になったり亡くなったり、ただの人に戻ったり。

 ああ、ホトトギスが鳴いています。物思いにふけるのはこのぐらいにしましょう。
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by madozukin | 2009-05-30 01:55 | コトバ
 わたしは
 ここにはいません
 わたしは
 だれかの夢だから

 わたしは
 一度両親によってころされ
 いのちを奪われました

 きょうだいたちは
 わたしの骨で取ったスープを
 最後の一滴まで飲みほしました

 飢えていたからと
 おばけになったわたしに
 ははは語ります

 しょうがないことなんだ
 恨まないでおくれ
 笑っておくれ

 からだを持たないことは
 けむりのような
 人生
 
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by madozukin | 2009-05-26 01:10 |
 神童という映画の中で、うたという少女が、「わたしは音楽だから、大丈夫だよ」というセリフを言います。公開当時「わたしは音楽」の意味が分かりませんでした。どうして大丈夫なのかも。

 音楽って歓びなのですね。祝福と言ってもいいかもしれない。とても深い歓びを経験するのですから。そんなことを思いつつ、現実へ戻ってきたら、店頭からマスクが一つ残らず(立体的でない四角いガーゼマスクはまだあった)消えていました。衛生観念の発達よりも、数少ないものを何とかして手に入れる歓びを、マスクの獲得を通して実感している人もいるでしょう。新型ウィルスのワクチンが完成するまでの期限付きですが。

 タイトルは、「マスクの効果」でミクシィの日記を検索していたとき、書かれてあった言葉です。画像は京都七条近辺です。ウィルス上陸以前のことなので誰もマスクをしていません。
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by madozukin | 2009-05-21 01:33 | メモ
 「かわいい」は、大体許容範囲の願望であり、緩やかな譲歩への依存です。日本人は、この言葉にすごく幅を持たせて使います。洗練の極みであり、同時にうっとうしさの突き当たりでもありましょう。

 「かわいいね」 女の子を誉めるときに主に使う。自分にもやさしくしてくれないかなという願望も含む。
 「かわいいと思われたい」 なんとなく受け入れられたい
 「かわいくない?」 みんなにとっても大丈夫そうな気がしている
 「あー、かわいい!」 とても無防備である自分を実感している

 という具合に使います。もちろんわたしも使ってます。他意はございません。わたしの分析は、皮肉が過ぎますが、もっと使われ方に則して捕まえると「詠嘆」ですね。他者を他者と意識せず、緩やかな暗黙の了解です。だから、似たタイプばかりでグループを形成する必要があったりなかったり。自分を意識せずに自分に包まれたい欲望のひだひだを感じたり感じなかったり。

 他人の登場が「かっこいい」に相当します。
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by madozukin | 2009-05-18 15:45 | コトバ
 ある日
 かれは
 おとめごころを
 発見した

 あなたを通して
 鏡のむこうの
 わたしに触れたいよくぼう

 大人は
 大人の演技をして
 自分をおちつかせる

 おっさんは
 乙女になって(少年ではなく)
 はじめて
 鏡の前にうっとりと立つ

 あなたは
 しあわせだった
 わたしは(ボクではなく)
 しあわせだよ

 鏡の表は
 いたずらっ子のように
 波打つ

 ときどき どきどき
 この気持ちは
 どちらのものともわからない

 とくとく どくどく 
 こんらんが
 あいまいな甘さをハイにする
 
 さざ波が
 こころを
 徐々に掠うというのに

 アイスクリームパフェのように
 油断して
 とろける
 おとめちゃん

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by madozukin | 2009-05-15 14:20 |
 >あなたにパシリを求めないように、
 >わたしにもパシリにさせないで

 ほぼ日新聞/ダーリンコラム/5月11日掲載からの引用です。
 
 先日、パシリをさせるような人と向こうをはって喧嘩別れしたところでした。パシリが何とも分からず。我ながら素晴らしい鈍感力です。でも、そこはかとなくいろいろ気持ち悪かったので、ここまでかなと思って区切りをつけて正解だったようでした。既にパシリにされていた人は、必要以上に相手を恐れていて、自分の気持ちを表現できずにいました。友人同士の関係で、それも不思議だったのですが、主人と奴隷だったらそんなものでしょう。

 鈍感力も役立つときがあるのですね。別れを書いた返事に、◎◎◎さんは感情を表現しすぎると言われ、だからってどうよと思ってました。奴隷は、感情を持たず忠誠を示すものらしく、彼女が最後に撒いたエサはエサだったのです。うっかり食べなくてよかったよかった。

 それはさておき、女の友情は、結構絵に描いた餅だと思ってます。女の人は、おかあさんからなかなか独立できないから、疑似母子関係に陥るのですね。自他の区別のない欲望の同一化です。
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by madozukin | 2009-05-13 02:22 | メモ
 ちちからお使いを頼まれなかったらたぶん行かなかった。図録を買うよう頼まれたのである。HPによると、結構な重さであることも判明したので、さっさと通販を選ぶ。

 それはそれとして、最終日になって、嘘はいかんなとか新日曜美術館で予習もしてるしのこのこ出掛けて行く。足どりも重く。しかし、それは思い掛けない出逢いとなった。

 美術品だけでなく、お寺の歴史の展示でもあるので、歴代の住持の肖像画が並ぶ。現代なら、連続当選を果たした国会議員が肖像がを描いて貰うように。様式が決まっていて、あまり特徴のない絵をぼんやりと見る。

 その効果が表れたのは後半の壁絵や屏風の展示になってからだ。妙心寺には、時の権力に沿わない気風があった。そのため、豊臣と関わりが深く、徳川から嫌疑をかけられた狩野山楽・山雪の作品も所蔵している。 情念のような葛藤ような梅の大木は、サルバドール・ダリにこそ見せたいなと思う。彼なら、何が書かれているか、誰よりも理解したでしょう。
 
 一人で観ていると、つい他の来館者の話し声に耳をそばだててしまうものだ。小さな男の子が、お父さんと一緒に来ていて、その説明が素晴らしかった。中国の賢人が、仙術を習いに来た場面では、仙術とは孫悟空のことだと子どもに分かる説明をしていた。鳥がたくさん飛んでいる絵の前では、これは自然をそのまま描いたものではないよと言っていた。わたしはえっと思ったが、よくよく観ればツバメとツルが同じ空間にいたのである。

 わたしにとって、貴重だったのは海北友雪の「龍雲図襖」である。代々の肖像画とのちがいが際立っていた。人は、漫然と描いていると、心細さから(もしくは雑念と言ってもいい)無駄な線を描いてしまうのである。その龍は、恐くて愛嬌があり複雑だった。だから、絵が動くのである。雪舟のねずみの話しのように。
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 昨日か今日、友人たちと作っていたフリペのコミュが閉鎖されました(mixi内)。めんどくさい経緯は割愛します。良いことも悪いことも両方あって勉強になりました。これまで、継続して人と作ったことはなかったので、ただ一人でやっていた頃とは違う一人が始まるのも楽しみです。

 さて、親密とは何かということを考えていたら、わたしには中間距離がなかったんじゃないかということに思い当たりました。天国か地獄かという人間関係はかなり特殊です。ということを迫られたので、そうなんじゃろうかと思い至ったのんきさですが、それでも息苦しかったなあ。
 
 世界でいちばん美しいのはだあれって、いとしくもない相手から、毎回問い詰められるのです。

 中間距離がないというのは、砂漠のように緊迫していて、少ない信頼(愛情)が奪い合いになるのでした。アーメン。驚くほど上手く行っている錯覚が大事で、相手を待つことが出来ないのも、水が乾上がり易い所以でしょう。ここでは、中間距離は裏切りに相当するらしく、それを提案したらきたない言葉で罵られました。
 
 天国とは、弥勒の解脱といっしょで、ざっくり言うと存在しません(百億の昼と千億の夜)。おお。それで、わたしは目が覚めたのです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%84%84%E3%81%AE%E6%98%BC%E3%81%A8%E5%8D%83%E5%84%84%E3%81%AE%E5%A4%9C
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by madozukin | 2009-05-08 18:10 | メモ
 善良なるイメージに困惑する。っていうか、善意が限界が至っているので、いまとても一人になりたい。わたし本人はもっといびつなんだけど、そのいびつであることを一生懸命誤魔化していたら、出来た人のように勘違いされてしまった。

 見えてないんだと思う。見えているのは自分自身の期待あるいは要望。それは、その人のもので、わたしにはどうにも関係ないのである。動機もないのに、他人の要請に応えなくてはならないほど辛いことはない。だから、相手の善良が負担になってしまった。善良であること強調されると更に苦痛である。

 【悪意にしろ善意にしても、能動性のない人は、恨むことによって安らぎを得るものだ。】

 自分の動機を、自分に対して引き受けなくて、どうして道が拓けようか。不幸なことに、わたしは、恨む人に慣れている。我慢していると、そういう人はどんどん重くなっていく。だって、見ているのは必ず自分の欲望であり期待だから。相手と自分の距離ではない。

 べたっとした起伏のない甘え、ではないのかもしれないが、もう約束に縛られたくないと思った。二度としたくない約束はしない。c0180752_2103348.jpg
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by madozukin | 2009-05-05 01:55 | メモ