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 理性の力で解決の図れるじぶんをすばらしいと思って、しばらく浮かれていたけれど、こころはとても苦しがっていた。わたしが、ひどく傷ついたのは、その人が最後まで他人事のような語り口で逃げ続けたから。いい人のように振る舞う一方で、当事者であることを避け続け、一度もじぶんのエゴを出さずに済ませたから。

 とてもヒステリックで攻撃的な大人幼稚えん相手より堪えた。

 悪気を引き受けられない脆弱な精神。にづるづる同情して、利用される間抜けなじぶんが腹正しくて、かなしい。また、やってしまったかの共依存体質(二度目)をだらっと眺める。共依存性って、大人になるのが(現実の直面)恐くて、疑似家族を演じてしまう気がします。その家族とは、上手く行っている錯覚を演じる舞台装置みたいなもので、現実よりも錯覚の維持が大事なのです。言わば、現実から逃げるクッションとしての相手を利用し続けます。

 だから、ひどいことをした自覚が薄く、訣別の意味も分からないようでした。わたし自身にとって、ほとぼりが冷めたらやり直しっていうことはありえないと噛み締めます。恐竜の神経衰弱さ。。
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by madozukin | 2009-06-26 02:20 | メモ
 好きということにしておけば、じぶんの依存を自覚せずにすむという巧妙、にようよう辿り着く。頭の中と外側と、いきなりいっぺんに掃除をはじめる。制作と関係なくない?と思いつつも、まあ、必要があったんだろう。にんげんは、頭だけだととてもバランスが悪いのだ。

 センターラグを引っぺがし、い草のものと換えて、ザーザー掃除機をかける。綿のラグは重たすぎて洗濯機が苦しげだ。はー。遠いけど、歩くぞ、あそこまで。
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by madozukin | 2009-06-23 13:46 | 制作日誌
 きょう、女優でもかぶりそうな?むぎわらぼうしを買いました。頭の部分が深くてよく似合ったのです。気の所為かもしれません。

 そう、全ては気の所為です。しかし、ひとは、冷静だけでも自惚れだけでも詰まらないのです。わたしは、たまたま帽子をかぶってしまいましたが、なりたい自分なれることとは違います。ぼうしを買えば、なりたい自分になれたような気がするだけのこと。「好き」はあくまで予感です。「情熱」というコトバでごまかさないでおこうと思いました。

 いつものことですが話題の本は読んでいません。じぶんのよくない根性から、まあまあ真っ当なところも通り過ぎて、素っ頓狂なところまで行って帰るのは面白い冒険でしょう。という本だったのかしら?

 ぼうしをかぶったくらいではあんまり遠くへは行けません。本を読んだら音楽を聴けば遠くへ行けるでしょうか。それは、どこまでも道案内な気がしました。エゴとエゴとがぶつかったとき、ひとは、本当に思いがけないところへ飛ばされます。だから、困ってもだいじょうぶ。
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 *写真は、ざぶとんの干し方が気に入ってぱちり。
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by madozukin | 2009-06-15 00:54 | コトバ
 なんというか、人の作品っていうのは、野蛮なまでに「わかる・わからない」である。

 人があれいいって言うのに、惑わされやすいわたしであったが、その人にとって真ん中でもわたしにはちがう。ちがう一人の道を行くのははっきりと馬鹿みたいだ。徒労に終わる可能性の方が高いから。でも、行きたい人は、一人でも困難でも行くということに気付いた。

 審査に受かったことより、出すチャンスを得たことを歓ぼう。タイトルやイメージを考える。どうにもえほんから離れつつありますが、原点はえほんだ。忘れんとこ。
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by madozukin | 2009-06-13 00:37 | 制作日誌
 フリペを作っていた、わたしたちは、共食い状態に陥りつつあった。ぴったりな言い方を思いつかないのだけど、相手といて面白くするということより、上手くいっている錯覚を無理に相手から引き出そうとしたのだ。もちろん、常に自分にとって。相手には、アンパンマンの自己犠牲を求めるけれど、思い通りにならないときの状況を絶対に引き受けたくない。

 全体が良くなることに関心がないのは致命的だった。個々の能力を問題視する前に集団として愚かだったとすら言える。アンパンマンを囓ることにしか関心がない、アンパンマンを囓れなかったことで異議申し立てをし、アンパンマンの不在を理解しない。よって、バタコさんもジャムおじさんも現れない。
 だから、小さな齟齬で崩壊し、新しいアイデンティティ(アンパンマンの顔に相当する)を持てなかった。

 混乱しつつも、いくらか冷静さを保てたのは、過去に彼等とよく似た人たちから振り回された経験による。わたしには、関係のない痛みを解決することはできない。そして、臆病を分けあってる内は変化もないのである。

 その人には、離れる時間が欲しいと言ってみたけれど、もう別々でいいんじゃないかしら。
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by madozukin | 2009-06-10 01:46 | メモ
 雨上がり、花壇にうようよいるナメクジを割り箸で拾う。植えたものは半分枯れて半分残った。思い通りになんかならない。思い通りになるかのような病を患っているじぶんを感じる。

 日本画家の松井雪子さんが、作家はナルシズムであることを強迫されると書いておられた。上手くて独特に凄味がある。ナルシズムと強迫観念で検索したときに出てきた新聞記事のインタビュー。ナルシスティックな人に悩まされていた頃だった。最初に松井さんに興味があったのではない。
 ナルシズムがつよくてバランスがわるい人は、わたしにとって、まずちちがいる。優秀だけども才能はたぶんない(意外性と構築力が凡庸だから)。例の人も、おそらく普通に気が弱かった。そして、二人とも「個性」という言葉に囚われ過ぎていた。しかし、個性って努力とは異質なところにあって(努力無くして開花しないが)、平凡を良しとしない不幸もあるのである。
 
 というのは、昨日、京都精華大学であった横浜聡子監督(ジャーマン+雨)の話を聞いたから。彼女のコトバは、彼女の中にある情報のほんの一部分を抽出したに過ぎない。

 台所の窓から匂う、独特の香りは山からのものではなかった。地理的にもやや離れている。近所の神社のドングリの花でもなく(とっくに終わっている)、わたしが、干していたミントの葉が乾いた匂いだったという落ち。窓辺は風が通るから。。本当にいい香り。
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by madozukin | 2009-06-05 18:01 | メモ