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マンガと詩


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イエスとトラウマ【修正版】

 話は、前回の「かまわれたい人々」から何となく続いています。

 個人である根拠とは何でしょう?だって、わたしたちは日本人ですもの(厳密には違います)、大体同じに慣れすぎています。大体同じでありたい故を以て、自民党が長期に渡り圧倒的に強い政党だったのです。余談ですが、その大前提をぶち壊したのは、現政権の民主党ではなく小泉元総理です。

 大体同じと言うことは、そんなに差がないと言うことで、差があったら抵抗なく妬めるということです。【悪口は、一人で言えば芸当にもなりますが、徒党を組むと安い情動の発散です。】

 そこで、まず、似ていないモノを探すと(差別の対象になりやすい)、貧乏と病気とトラウマと外国人であることが上がります(宗教の違いや多民族であることが前提になっていかない)。本人がどうしようもないことを根拠として、他人を貶めることに精を出す人の問題は、ここでは置いておきます。次に、それだけでは集団からの分離や隔離で終わるので、とても似ているけれども似ないことを探します。トラウマは、人と共有することの難しい極めて個人的な体験です。
 
 さて、トラウマを引き受けたい人はなかなかいません。なぜなら、トラウマは、人を孤独にするからです。漠然と親を恨みながら、親のように発散する対象を見つけ出して当たり散らす方が、心持ちでも安心です。安心したい欲望は、変化による希望をも凌駕します。
 でも、トラウマ話で注目されることは、個人であることとは違います。全然引き受けていないからです。それはそういうものです。声を出して、まだ未消化な自分を叫んでいる状態と言えましょう。

 というわけで、個人であることの根拠とは、引き受けがたいトラウマです。強引です。イエスは、いちばん最初に「わたしは、それを引き受けよう」と言った人ですね。個人の必須条件は、乗り越えなくてはならない不条理(トラウマ)に立ち向かえるだけの体力です。
やっとクリスマス・イブらしいお話しに。。


 個人でない人は、先日の読書の続きでいえば、かまわれる不自由を甘受して幸せを追求すればいいのです。かまわれない自由が、そんなに偉いわけではなく、生態系が違うのです。他人の生態系よりも、じぶんにとっての「幸せ」を知らない人は脆弱です。他人を羨んでいる内に人生は終わります。
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by madozukin | 2009-12-24 16:49 | コトバ